8月17日の日曜日、11日に亡くなられた所属会派の道原最高師範 道原伸司先生の葬儀があり、参加しつつお手伝いをさせていただきました。
先輩と一緒に、駐車場案内の係。徒歩の参列者の方々にも一番最初にお出迎えするポジションでした。
こういた機会でもない限り、こんな記事を書くこともないですし、せっかくなので、道原先生を偲んで、少し道原先生と東京海洋大学空手道部のつながりをご紹介です。
8月17日の道原最高師範の葬儀では、東京都空手道連盟の理事の方々が参列され、日本空手道連盟 名誉会長の笹川 堯先生が弔辞を読まれました。論文の共著者からも、道原先生は、和道会とのつながりが示されており、和道会からは柳田俊介も参列されていました。また、空手界の著名な先生方からも弔電や供花が届いておりました。道原先生の功績の大きさを示しているものと思われます。
個人的に、道原先生は、空手界の創成期、沖縄から入ってきた空手(当時は唐手)を安全に競技化して、オリンピック種目に引き上げた先生方の一人だと思います。
それも、戦後のごたごたの中、船越先生の空手を出発点として、他の空手が沖縄から入ってきたり、日本古来の柔術や船越先生以外の空手などを取り込みながら分裂していった時代です。
空手も、各会派や流派で、大きく変化していた時代でした。
その中でも、船越先生の空手は、日本空手協会だけでなく、松濤館流でもいくつもの会派に別れ、政治的な背景もあり、様々な形に変化しています。
道原先生が大学3年生から学ばれて四段を取得されていた和道流も、自由組手を取り入れ、当時、変化の真っただ中だったと推測されます。
道原先生の先輩や同期であった、真野高一先生や荒川通先生が現代の和道流(和道会)の形を作っていき、道原先生は、先述の通り、流派を問わない競技空手の発展を行っていかれたものと考えています。
道原先生が中学3年生から大学2年生まで学ばれた空手は、言わば、船越先生の原型の空手であり、松濤館流です。そのため、会派のピンバッチ等は、小杉放庵画伯の虎の絵が用いられています。

半端者の私は、道原先生の空手人生を反対から歩み、協会系の流れを組む国際松濤館と和道会の両方を学んでいます。
空手の歴史と照らし合わせながら、今でも変化の軌跡も身をもって学んでいます。
先生のポジションも難しかっただろうなぁと思う次第です。
一方、先述の通り、道原先生は、和道会の先生方々と深い交流があったことは言うまでもありませんが、日本空手道道場会(松濤館流)の馬場良雄先生とも非常に仲が良かったと記憶しています。
なお、道原先生は、大学卒業後、一旦民間企業には就職されていますが、その後、空手だけで生計を立てておられました。
今の時代、ティーチングプロも増えていますが、当時、想像を絶するような苦労もあったことでしょう。いくら好きでも、空手で食っていくのは、いばらの道。
すごいなぁの一言です。
道原先生の死により、一つの時代が終わったようにも感じています。
先生の息子さんの話では、晩年、満足した人生だったとおっしゃっておられたそうです。念願だった空手のオリンピック競技かも叶ったのも、大きいのではと推測されます。
偉大な道原最高師範のご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。感謝です🙏
さて、ここからは、余談であり、個人的な見解というか、取り留めない思い出話だと思ってください。
大学生時代、道原先生の指導で、最も記憶に残っているのは、先生の突き蹴りの重さです。
小柄な先生なのですが、尋常じゃない重さでした。
当然、半端もんの私では、とても到達できないレベルの修練度だと思います。
移動稽古の前半は松濤館流のものでした。もちろん、協会系ほど足幅を上下左右に広く前屈立ちしませんが、体の使い方は松濤館流です。一方、後半の組手基本の移動稽古は、和道流らしさが出ており、今考えると和道流の技法が組み込まれていたと思います。足払いからの突き技は、和道らしいというか競技空手らしいコンビネーションです。また、昨今、腰の捻を重要視した逆上からの3本連突きは、和道の体の使い方(;腰の捻転)をしなきゃ、習得するのは難しんじゃないかな?とも思っています。
そして、約束組手は、上段・中段の突きは、上げ受けや下段払いでしっかり受け、前蹴りは体さばきで躱しながら下段払いで受けていました。
実際、中学校の武道授業で行われ始めている空手は、松濤館流の要素が強いです。ただし、協会系のように腰を落とさないので、船越先生の原型の空手に近いとも言えます。
そのため、胸前で十字構えて受けること以外、なじみの深い形だったりします。
ちなみに、組手って、自由組手や組手競技を意識すると、自然に、受けながら突くという動きに行きつき、和道流のように正面で受け、さらに逆半身になるくらい腰を入れて突く形になってしまいます。
今や、他流派の方々も普通に使っている組手技術ですが、もともとは和道の技法なんだろうなぁと考えています。
まぁ、今の組手競技は、さらに別の格闘技の要素が入ってきています。テコンドーやボクシングの要素が取り入れられているケースも少なくない。今でも、空手は変化しているのです。
私には、道原先生に対して、1つの不義理があり、学生時代、激怒させたことがあります。
4年生秋の国公立戦に出場しなかったこと。
理由は、大学院の入試で、満足のいく稽古ができていない中、後輩のレギュラー枠を奪うわけにはいかないと考えたためです。
当時、7月に関東の体重別で私立強豪を相手に中量級ベスト8に入っていたので、期待されていたこその怒りだったのでしょう。
どうすべきだったかの正しい答えは見つかりませんが、未だ心残り。
そこから20年近くお会いする機会がありませんでした。
最後に、私が道原先生にお会いしたのは、最後のNECの合宿(2018年)の翌年だったと記憶しており、東京武道館で行われた都民大会(2019年)でだったと思います。
一方、間が悪く、先生がトイレから出てこられたときにばったり会ってしまい、さらっとしか挨拶できなかったのが心残り。握手して別れたことを覚えています。
それから、コロナ渦に突入し、コロナが明けたら、道原先生の症状が悪くなり、会えず終いでした。
2018年のNEC合宿は、トラブルがあり、2019年は、自粛されました。お元気な内に、もう一度、合宿等でお会いしたかったなぁと残念に思っております。
申し訳ございません。文章も長くなり、取り留めないので、これで終わりにしたいと思います。
P.S.
諸先生方のWikiも少し加筆して修正いたしました。
知っている人がいなく前に、記録を残しておくことも大事なのかなぁと思う次第です。
先輩と一緒に、駐車場案内の係。徒歩の参列者の方々にも一番最初にお出迎えするポジションでした。
こういた機会でもない限り、こんな記事を書くこともないですし、せっかくなので、道原先生を偲んで、少し道原先生と東京海洋大学空手道部のつながりをご紹介です。
8月17日の道原最高師範の葬儀では、東京都空手道連盟の理事の方々が参列され、日本空手道連盟 名誉会長の笹川 堯先生が弔辞を読まれました。論文の共著者からも、道原先生は、和道会とのつながりが示されており、和道会からは柳田俊介も参列されていました。また、空手界の著名な先生方からも弔電や供花が届いておりました。道原先生の功績の大きさを示しているものと思われます。
個人的に、道原先生は、空手界の創成期、沖縄から入ってきた空手(当時は唐手)を安全に競技化して、オリンピック種目に引き上げた先生方の一人だと思います。
それも、戦後のごたごたの中、船越先生の空手を出発点として、他の空手が沖縄から入ってきたり、日本古来の柔術や船越先生以外の空手などを取り込みながら分裂していった時代です。
空手も、各会派や流派で、大きく変化していた時代でした。
その中でも、船越先生の空手は、日本空手協会だけでなく、松濤館流でもいくつもの会派に別れ、政治的な背景もあり、様々な形に変化しています。
道原先生が大学3年生から学ばれて四段を取得されていた和道流も、自由組手を取り入れ、当時、変化の真っただ中だったと推測されます。
道原先生の先輩や同期であった、真野高一先生や荒川通先生が現代の和道流(和道会)の形を作っていき、道原先生は、先述の通り、流派を問わない競技空手の発展を行っていかれたものと考えています。
道原先生が中学3年生から大学2年生まで学ばれた空手は、言わば、船越先生の原型の空手であり、松濤館流です。そのため、会派のピンバッチ等は、小杉放庵画伯の虎の絵が用いられています。

半端者の私は、道原先生の空手人生を反対から歩み、協会系の流れを組む国際松濤館と和道会の両方を学んでいます。
空手の歴史と照らし合わせながら、今でも変化の軌跡も身をもって学んでいます。
先生のポジションも難しかっただろうなぁと思う次第です。
一方、先述の通り、道原先生は、和道会の先生方々と深い交流があったことは言うまでもありませんが、日本空手道道場会(松濤館流)の馬場良雄先生とも非常に仲が良かったと記憶しています。
なお、道原先生は、大学卒業後、一旦民間企業には就職されていますが、その後、空手だけで生計を立てておられました。
今の時代、ティーチングプロも増えていますが、当時、想像を絶するような苦労もあったことでしょう。いくら好きでも、空手で食っていくのは、いばらの道。
すごいなぁの一言です。
道原先生の死により、一つの時代が終わったようにも感じています。
先生の息子さんの話では、晩年、満足した人生だったとおっしゃっておられたそうです。念願だった空手のオリンピック競技かも叶ったのも、大きいのではと推測されます。
偉大な道原最高師範のご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。感謝です🙏
さて、ここからは、余談であり、個人的な見解というか、取り留めない思い出話だと思ってください。
大学生時代、道原先生の指導で、最も記憶に残っているのは、先生の突き蹴りの重さです。
小柄な先生なのですが、尋常じゃない重さでした。
当然、半端もんの私では、とても到達できないレベルの修練度だと思います。
移動稽古の前半は松濤館流のものでした。もちろん、協会系ほど足幅を上下左右に広く前屈立ちしませんが、体の使い方は松濤館流です。一方、後半の組手基本の移動稽古は、和道流らしさが出ており、今考えると和道流の技法が組み込まれていたと思います。足払いからの突き技は、和道らしいというか競技空手らしいコンビネーションです。また、昨今、腰の捻を重要視した逆上からの3本連突きは、和道の体の使い方(;腰の捻転)をしなきゃ、習得するのは難しんじゃないかな?とも思っています。
そして、約束組手は、上段・中段の突きは、上げ受けや下段払いでしっかり受け、前蹴りは体さばきで躱しながら下段払いで受けていました。
実際、中学校の武道授業で行われ始めている空手は、松濤館流の要素が強いです。ただし、協会系のように腰を落とさないので、船越先生の原型の空手に近いとも言えます。
そのため、胸前で十字構えて受けること以外、なじみの深い形だったりします。
ちなみに、組手って、自由組手や組手競技を意識すると、自然に、受けながら突くという動きに行きつき、和道流のように正面で受け、さらに逆半身になるくらい腰を入れて突く形になってしまいます。
今や、他流派の方々も普通に使っている組手技術ですが、もともとは和道の技法なんだろうなぁと考えています。
まぁ、今の組手競技は、さらに別の格闘技の要素が入ってきています。テコンドーやボクシングの要素が取り入れられているケースも少なくない。今でも、空手は変化しているのです。
私には、道原先生に対して、1つの不義理があり、学生時代、激怒させたことがあります。
4年生秋の国公立戦に出場しなかったこと。
理由は、大学院の入試で、満足のいく稽古ができていない中、後輩のレギュラー枠を奪うわけにはいかないと考えたためです。
当時、7月に関東の体重別で私立強豪を相手に中量級ベスト8に入っていたので、期待されていたこその怒りだったのでしょう。
どうすべきだったかの正しい答えは見つかりませんが、未だ心残り。
そこから20年近くお会いする機会がありませんでした。
最後に、私が道原先生にお会いしたのは、最後のNECの合宿(2018年)の翌年だったと記憶しており、東京武道館で行われた都民大会(2019年)でだったと思います。
一方、間が悪く、先生がトイレから出てこられたときにばったり会ってしまい、さらっとしか挨拶できなかったのが心残り。握手して別れたことを覚えています。
それから、コロナ渦に突入し、コロナが明けたら、道原先生の症状が悪くなり、会えず終いでした。
2018年のNEC合宿は、トラブルがあり、2019年は、自粛されました。お元気な内に、もう一度、合宿等でお会いしたかったなぁと残念に思っております。
申し訳ございません。文章も長くなり、取り留めないので、これで終わりにしたいと思います。
P.S.
諸先生方のWikiも少し加筆して修正いたしました。
知っている人がいなく前に、記録を残しておくことも大事なのかなぁと思う次第です。











